念佛院について
當麻山念佛院曼陀羅寺(たいまさん・ねんぶついん・まんだらじ)と号します。
念佛院の縁起
奈良の南にらくだの背中のような美しい連山があります。
二上山といい、昔から信仰の山として親しまれてきました。
この山の麓にあるのが名刹當麻寺です。
當麻寺は、極楽浄土の様子を描いた「當麻曼陀羅」とその作者と伝えられる「中将姫」の
お寺として有名です。
念佛院はこの當麻寺の江戸別院として開創されたお寺です。
念佛院は當麻山念佛院曼陀羅寺と号し、江戸幕府が開かれた三年後の
慶長十一年(1606年)當麻寺の名僧、慶誉究諦上人が新興の地・江戸にも
當麻曼陀羅と中将姫の功徳を広めたいと発願なさり、有縁の地を選び建立されました。
江戸時代までは二十五菩薩来迎会というお面かぶり練り行列が行われ、大そう賑わった事が、
「東都歳時記」という書物に絵入りで紹介されています。
中将姫の髪の毛で織られた南無阿弥陀仏のお名号が現存して安置されています。
二上山といい、昔から信仰の山として親しまれてきました。
この山の麓にあるのが名刹當麻寺です。
當麻寺は、極楽浄土の様子を描いた「當麻曼陀羅」とその作者と伝えられる「中将姫」の
お寺として有名です。
念佛院はこの當麻寺の江戸別院として開創されたお寺です。
念佛院は當麻山念佛院曼陀羅寺と号し、江戸幕府が開かれた三年後の
慶長十一年(1606年)當麻寺の名僧、慶誉究諦上人が新興の地・江戸にも
當麻曼陀羅と中将姫の功徳を広めたいと発願なさり、有縁の地を選び建立されました。
江戸時代までは二十五菩薩来迎会というお面かぶり練り行列が行われ、大そう賑わった事が、
「東都歳時記」という書物に絵入りで紹介されています。
中将姫の髪の毛で織られた南無阿弥陀仏のお名号が現存して安置されています。
- 名 称:
- 浄土宗
- 宗 祖:
- 法然上人(源空)(1133〜1212年)
- 開 宗:
- 承安五年(1175年)
- ご本尊:
- 阿弥陀仏 (阿弥陀如来)
- 総本山:
- 知恩院
住職からのご挨拶
こんにちは。念佛院の住職を務めさせていただいております、中野良平でございます。
私は元々お寺で生まれ育ったわけではなく、一般家庭に生まれ育ちました。
小さい頃は両祖母に連れられてお墓参りをしていました。
ご縁があり仏道の世界に入らせていただきましたが、
もしこのご縁がなければ、何故お参りをしていたのか、
自分の家族の宗教がどうなっているのか、
興味も持っていなかったかもしれません。
だからこそ、私は一般家庭に生まれた、その目線を大切にしております。
皆さんと同じ目線でお話ができることで価値観を共有できればと思っております。
私は元々お寺で生まれ育ったわけではなく、一般家庭に生まれ育ちました。
小さい頃は両祖母に連れられてお墓参りをしていました。
ご縁があり仏道の世界に入らせていただきましたが、
もしこのご縁がなければ、何故お参りをしていたのか、
自分の家族の宗教がどうなっているのか、
興味も持っていなかったかもしれません。
だからこそ、私は一般家庭に生まれた、その目線を大切にしております。
皆さんと同じ目線でお話ができることで価値観を共有できればと思っております。
髪繍六字名号
髪繍六字名号は、毛髪をまとめて縫い上げた六字名号(南無阿弥陀仏)で、中将姫ちゅうじょうひめ所縁の什物として、須弥壇脇の厨子に納められています。
大きさは、縦52.6センチメートル、横(裏打を含む)17.7センチメートル。絹地に蓮華座上に舟形光背を負う六字名号を髪繍しています。下地裂したじぎれを群青に染色し、舟形光背は金箔を押しています。もとは掛幅かけふくでしたが、修復のために周囲を切り落とし、近代になって厨子に入れたようです。
制作時期は不明ですが、毛髪を太く束ねる点、纏繍まといぬいで面を埋める点に、中世の特色と共通点があります。しかし、髪繍が名号のみである点や、技法が単調であることから、古くても室町時代後期(16世紀)の制作と考えられます。
中将姫は、当麻寺たいまでら(奈良県葛城市)にある独特の「浄土変観経曼荼羅じょうどへんかんぎょうまんだら」(当麻曼荼羅と呼ばれる)の成立縁起にあらわれる伝説上の女性です。中将姫は、継母に疎まれ不遇の生活を送っていましたが、仏道への志深く、天平宝字7年(763)に当麻寺へ登り法如尼ほうにょにとなりました。法如は自らの毛髪で阿弥陀三尊を縫い、その遺品は各地に伝来しています。さらに生身の阿弥陀を拝する誓願を立てると、尼に化現した阿弥陀如来が蓮の茎を集めさせて糸とし、観音が化現した織姫とともに曼荼羅を織りあげました。その功徳から宝亀6年(775)、法如は極楽に往生したということです。
本名号は、念佛院の開山である究諦くたい(1590~1639)が、江戸下向の折に、当麻寺念佛院より招来した中将姫所縁の什宝のひとつと推定され、中将姫が自らの毛髪で刺繍したものと伝えています。当寺の創建由緒を物語る遺品であると同時に、近世以前の髪繍名号として貴重な作品です。
大きさは、縦52.6センチメートル、横(裏打を含む)17.7センチメートル。絹地に蓮華座上に舟形光背を負う六字名号を髪繍しています。下地裂したじぎれを群青に染色し、舟形光背は金箔を押しています。もとは掛幅かけふくでしたが、修復のために周囲を切り落とし、近代になって厨子に入れたようです。
制作時期は不明ですが、毛髪を太く束ねる点、纏繍まといぬいで面を埋める点に、中世の特色と共通点があります。しかし、髪繍が名号のみである点や、技法が単調であることから、古くても室町時代後期(16世紀)の制作と考えられます。
中将姫は、当麻寺たいまでら(奈良県葛城市)にある独特の「浄土変観経曼荼羅じょうどへんかんぎょうまんだら」(当麻曼荼羅と呼ばれる)の成立縁起にあらわれる伝説上の女性です。中将姫は、継母に疎まれ不遇の生活を送っていましたが、仏道への志深く、天平宝字7年(763)に当麻寺へ登り法如尼ほうにょにとなりました。法如は自らの毛髪で阿弥陀三尊を縫い、その遺品は各地に伝来しています。さらに生身の阿弥陀を拝する誓願を立てると、尼に化現した阿弥陀如来が蓮の茎を集めさせて糸とし、観音が化現した織姫とともに曼荼羅を織りあげました。その功徳から宝亀6年(775)、法如は極楽に往生したということです。
本名号は、念佛院の開山である究諦くたい(1590~1639)が、江戸下向の折に、当麻寺念佛院より招来した中将姫所縁の什宝のひとつと推定され、中将姫が自らの毛髪で刺繍したものと伝えています。当寺の創建由緒を物語る遺品であると同時に、近世以前の髪繍名号として貴重な作品です。
念佛院しんぶん
念佛院では、不定期で、手書きの新聞を発行しており、
現在、主に中学生の息子といっしょに書いています。
お檀家の皆様から、感想のお手紙や、ご好評なお声がけを多くいただいております。
現在、主に中学生の息子といっしょに書いています。
お檀家の皆様から、感想のお手紙や、ご好評なお声がけを多くいただいております。